マチの場合

なんとか仕事が終わって俺は慌ててビルの屋上から屋上へ飛び移る。
だ、だってこのままじゃ遅刻しそうなんだよ待ち合わせに…!
人波をかきわけるとか、信号で引っ掛かるとか無駄な時間を消費できない…!
待ち合わせをしてる相手は、俺の中で待たせちゃいけない人物上位に入っている。
…怒ると怖いんだ、うん。俺は直接怒らせたことないけど、他の奴が怒られてるのを見たら…。
い、いかん思い出しちゃいけない。

待ち合わせにしてるあまり人の姿のない公園に辿り着く。
手段を選んでられなかったから、念まで使って急いできちゃったよ、もうヘトヘト。
えーと、どこにいるかな。多分、職業柄あんまり目立つ場所では待ってないんだろうけど…。



涼しげな声が聞こえて振り返ると、公園の木のひとつに寄りかかるようにして立つ姿を発見。
俺と目が合うと、待ち合わせの相手であるマチが本を閉じてすたすたとやって来た。
こ、こういうときはまず謝るのが一番だよな。それが一番、被害が少ない方法のはず…!

「ごめん、マチ。待たせただろ」
「…待ち合わせ一分前。上出来じゃないの」
「いや、待ち合わせは五分前が常識」
「あいつらに聞かせてやりたい言葉だね。あんたの爪の垢を煎じて飲ませたいよ」

…そんなに旅団の奴等ってルーズだったっけ…?
仕事が絡んでればちゃんと集まるだろうけど、プライベートだと違うってことかな。
まあ、豪快というかずぼらな奴等もいるからわからないでもない。
とりあえずマチが怒ってないとわかって安心した。
ふと彼女が手にしてる本に視線を落として、あれと驚く。

「マチ、その本」
「…あぁ、の本棚から勝手に持ってきた。面白いって言ってたから」
「どう?」
「ま、退屈しのぎにはいいよ。団長みたいに悪趣味な本じゃないし、シャルの偏ったジャンルってわけでもないから」
「…あの二人は特殊なだけだよ」

まあ俺も考古学絡みになるとやっぱり偏った蔵書になっちゃうんだけど。
普通に活字そのものが好きだから、自宅のあるいまではかなりの本を集めちゃってる。
多すぎるから減らせ、ってマチにはよく怒られるんだけどさ。
また読みたくなることもあるかもしれないから、どうしても捨てられないんだよなー。

「まったく、本好きの考えは理解できないね。本で部屋をいくつも潰すなんてさ」
「…ちゃんと寝室とか生活に必要な部屋は残してるし、問題ないだろ」
「だからって、帰るたびに本棚やら段ボールやら増えてるのは頭が痛くなるんだけど」
「………その、ごめん」
「いいけどね、あんたの家だ。どうしようが自由さ」
「けど、マチの生活スペースが少ないのは申し訳ないとは思ってる。だから今日、買い物に誘ったわけだし」

そう、実は今日のお出かけは俺から誘った。
新婚さんな俺たちなわけだけど、お互いの仕事や活動があってずっと一緒というわけではない。
とはいえ、家はひとつの場所になったから、いまではマチも俺の家が帰る場所。
でもマチはもともと私物が少ない。多分、旅団だとか流星街での生活の習慣なんだろう。
着替えだって必要最低限しかないし、趣味で集めてるものとかもあんまりない。
一応マチ用の部屋も開けてあるんだけど、殺風景にも程がある感じなんだ。

というわけで、家具やら服やら日常品を揃えようって言い出したのが俺。
マチは最初渋ったけど、そこはなんとか説得して。
だって見たいじゃん、マチの私服姿!俺、数えるほどしか見たことないよ!

行こうと促して向かった先は大型のデパート。ここなら大抵のものは揃う。
まずは家具とかだけど、いっそフローリングを畳にしてみる?と提案したり。
シンプルな家具を好むのがマチらしい、と思ったり。けっこう有意義で。
欲しいものをだいたい決めて、次は服。ぎりぎりまで渋ってたマチの背中を押して売り場へ。

「…せっかく買っても、着る機会がないんじゃもったいないだろ」
「仕事で着ろって言ってるわけじゃない。家にいるときだけでも構わないから」
「……なんでそんなに買わせたがるんだよ」
「プライベートと区切れていいだろ?家に帰ってきたときは、寛いでほしい」
「慣れない服着てる方が逆に落ち着かないんだけど」
「そのうち慣れる」

旅団に属してるマチは危ない身の上でもあるわけで。
私服着てたら随分と印象も違うから、気づかれることが少ないんじゃないかなと思う。
気づかれたところでマチなら難なく撃退するんだろうけどさ、俺の心臓がもたないよ。

しかし女の子って服装とか髪形で印象変わるよなー。
マチは基本ポニーテールだけど、髪下ろすだけで別人っぽくなるし。






仕事を片付けて向かった待ち合わせ場所に、少し慌てた様子でやって来た
あいつも仕事って言ってたから、そこから直接急いで来たんだろう。
私との約束にが遅れて来たことはない。そういう小さな積み重ねが、信頼を与えた。
まさか結婚、なんてするとは思わなかったけど。だからどうということもない。
が私の行動を制限することはないし、こっちだって口出しをするつもりはない。

そのはずだったんだけど。
今日は私用の家具と雑貨を買うためにデパートへと連れ込まれていた。
別に現状で満足してるからいらない、とつっぱねたんだけど。意外と強引に押し切られた。

着心地が良くて動きやすいものを優先して選ぶあたり、わかってはいるみたいだけど。
なんでそうまでして服を買わせようとするんだか、と少し辟易とする。
仕事とプライベートを分ける。その考え方はわからないでもないけど。
女を着飾らせたい、なんて願望がこいつにもあったりするんだろうかと眉間に皺を寄せる。
そんなとき、はらりと髪が落ちる感覚があって振り返るとが目を細めていて。

この焦げ茶の瞳が、少し苦手なんだ。
凪いだ海のような静けさと、その底で渦巻く何かが私を落ち着かなくさせる。

「…マチは、髪は上げるか流すしかしないな」
「何か問題でも?」
「いや、どっちも似合ってるけど。別の髪形もいいかもしれないと思って」
「……あんたねぇ、私で人形遊びはやめてくれないかい」
「そんなつもりはない。マチは美人だから、本当になんでも似合うよ」

真剣な顔で言われて言葉に詰まった。
からかうような響きだったり、媚びを売るような声だったら反論できるのに。
こいつの場合、心底そう思って言ってるって感じだからどう返していいかわからなくなる。

結婚だってそうだ。私が結婚なんて、考えたこともなかった。
のことは信頼してたし、マシな男の部類だとも思っていたけど。結婚とか恋愛は別物。
そう考えていたのに、いまでは夫婦とやらにおさまっている自分がいる。
マチの帰れる場所を増やしてくれると嬉しい、と言われたのはいつのことだったか。
仕事で怪我をしたときだったっけ。あいつもたまたま居合わせて、応急処置をしてくれた。
私の念糸で処置できるような類のものじゃなくて、あのときがいなかったら危なかっただろう。

大怪我を負った私に、珍しくあいつは辛そうに顔を歪めていたっけ。
いつものことだ気にするな、と言った私に投げられた言葉が「帰る場所」についてだったんだ。
最初は何のことを言われているのか意味がわからなかった。帰る場所って何?ってね。
いまではその意味が少しだけ、わかる。

にも、帰れる場所というものが必要だと、感じるから。
何を根拠にしているかは自分でもわからないけど、私の勘が告げてる。
あいつは誰かが重石になってないと、ある日突然消えてしまうと。
そうして、私たちはお互いに帰る場所になった。その経緯は…まあ、内緒にしとくよ。
縛られることは嫌いだけど。がいる場所にふらっと顔を出すのは悪くないと思えた。
一緒にいることでほっとするのも、事実だから。

「せっかくだから、これ着て帰るとか」
「あんたがそうしたいならいいけどね。高くつくよ」
「…ちなみにどんな?」
「そうだねぇ……。明日、ヒソカから仕事の依頼をされてるんだけど、同行してくれる」
「………治療の依頼?」
「だろうね、相変わらず馬鹿みたいな戦い方してるんだろうさ」

肩をすくめると、少しだけのオーラがゆらりと揺れた。
これは不機嫌の予兆。ヒソカ本人を嫌ってるのもあるだろうけど、と私は意地悪く笑う。

「まさか、可愛い新妻を狼の前に放り出すってことはないだろ?旦那様」
「………どっちが狼だかわかったもんじゃないな。了解、ついていくよ。仕事もないし」
「取引成立だね」

私たちが結婚しようが、ヒソカの妙な執着ぶりは変わらない。
もともとあの変態はそういうことは関係ないんだろう。本当、厄介な男だ。

新しく買った服をそのまま着させてもらい、服に合わせて靴も選ぶ。
いつの間にやらが髪飾りまで買ってて、それで器用に私の髪をいじる。
なんでこういうの手馴れてるんだか、と思ったけど。なんでも何もないか、と自分でツッコむ。
この男、そういえば女との噂は常に絶えないんだった。
もちろんそれは昔のことで、いまはいっそ驚くぐらい誠実だけど。
それはもう、クロロとシャルが驚くぐらい浮気とかそういったことがない。

歩きづらいだろうから、と差し出された手に私も手を重ねる。
私の帰る場所がひとつ増えたように。にとっての帰る場所も、ちゃんとできたならいい。
結婚なんて意味のないものと思ってたけど、それだけでも価値はあったと思える。

お互いに柄じゃないと感じてはいるだろうけど。
こうして普通の恋愛みたいなものを楽しむのも、いいかもしれないと。

そう考える程度には、こいつのことを気に入ってるのさ。





旅団の皆さんにはさぞ冷やかされたことでしょう。

[2012年 6月 21日]