アンの場合

さん。……さん?」

優しい声に意識が浮上して、ゆっくりと瞼を押し上げる。
差し込む朝日に一瞬目を細めてから、声の主を探して俺は視線を腕の中に落とした。
見上げてくる瞳は俺が目覚めたのを確認してほっと安堵したみたいで。
時計をちらりと確認して、ああもうこんな時間かと俺はゆっくり温もりから手を離す。

「…おはよう、アン」
「おはようございます」

少しはにかんだ笑顔を見せたアンは、ちょんと俺の頬にキスを落として起き上がる。
………なんか、このたびにじーんと幸せ感じるんだよな俺。
女の子と縁のなかった生活から一転、いまではこんな可愛い奥さんもらえちゃって。
でも嬉しいやら恥ずかしいやらで、俺は顔を見られたくなくてもう一度アンをぎゅっと抱きしめる。
きゃ!?と悲鳴が聞こえるけどいまは我慢してほしい。マジで、情けない顔してるよ俺。

そんな俺に気づいたのか、アンは身体の力を抜いて背中を優しく叩いてくれた。
あーもう、情けない旦那で申し訳ない。よし、もう大丈夫。

「今日は、仕事だっけ?」
「はい。さんは休日なんですから、ゆっくり身体を休めて下さいね」

いまではアンは看護師の資格をとって、シャンキーの病院で正式に働いてる。
俺とアンが結婚して新居にしてるのはシャンキーの病院の敷地内にある建物だ。
新婚の空気を浴びるのは辛いよ、と泣き言を言いながらシャンキーが提供してくれたもの。
何から何まで世話になりっぱなしだよなぁ。
いまだに俺は運び屋を続けてるけど、最近はシャンキー絡みの仕事が主になってきた。
医療品を運ぶとか、よくわからない資料を届けるとか。前に比べれば安全なものが多い。
…いや、扱い間違えたらヤバイものもけっこうあるらしいんだけどね?

身支度を整えてキッチンに向かうアンを手伝うため、俺もベッドから抜け出す。
料理はできる方がやるようにしてるんだけど、今日みたいに二人いる場合は一緒に作る。
女の子が包丁扱ってる姿っていいよなぁ、こう…綺麗だなって思う。
俺たち男とは切り方が違うよな。丁寧というか繊細というか、うん。

さん、味付けどうですか?」
「…うん、いつも通りおいしいよ」
「甘やかしてません?」
「そんなことない、本当にいつもおいしいと思ってる。俺のために作ってくれた料理なんだから」

手料理ってだけで、もう胸がいっぱいだよ俺は。
それに実際、アンは料理が上手い。俺の好みに合わせて、ジャポン料理も練習中らしい。
くーっ、ホントいいお嫁さんもらえた!

幸せな朝食を終えて、出勤するアン(といっても徒歩一分もない敷地内の病院)に同行。
おはようございます、とアンが診察室に顔を出すとシャンキーはすでにそこにいた。

「新婚さん、いらっしゃーい」

相変わらずのビン底メガネをかけて、白衣を肩に羽織った医者はいつも通り胡散臭い。
こっちをにやにやと眺めたシャンキーは、今度はうんうんとひとり頷きはじめた。

「妻の仕事場にも顔を出す。溺愛してるねぇ、色男」
「せ、先生」
「…手伝えることがあればやろうと思ったんだけど」
「せっかくの休日に?献身的、涙が出るぜ、くうっ。……まあ、目薬だけど」
「小芝居はいらない」
「ちぇー、淡泊なのは変わらないって?アン嬢、よくこれをつかまえられたな」
「もう、先生ってば!」

真っ赤な顔で抗議するアンは可愛い…じゃなくて。
アンの上司というか雇い主であるシャンキーは、ことあるごとに俺たちをからかってくる。
もちろん、良い意味で気にかけてくれてるのはわかる。感謝もしてる。
でもときどき、完全なるオヤジモードに入られるから面倒臭い。

「と、とりあえず、私は掃除してきます」
「俺も手伝うよ」
「でも」
「やっぱりひとりじゃ広すぎるから。遠慮なく頼って」
「ひゅーひゅー」
「先生!」
「シャンキー、うるさい」
「いいじゃないの、ささやかな楽しみを年寄りから奪わないでよ」






さんと朝を迎えられるたび、これは夢じゃないんだって泣きそうになる。
とてもとても優しいひと。すごく強くて、なのにいまにも消えてしまいそうな儚いひと。
私の命と心を救ってくれたあのひとは、忽然といなくなってしまいそうな危うさがあって。
でも私は何もできず、ただ悔しい思いをするばかりだった。

けれどいま、彼はここにいてくれる。
これは夢じゃないんだよ、と温もりが教えてくれる。そしてシャンキー先生も。
私が不安にならないよう、二人であることを自覚させるようにからかってみせる。

「アン、重いものは俺が運ぶから言って」
「はい、ありがとうございます」

最近では危ない仕事も減ってきたらしいさんは、傍にいてくれる時間が増えた。
そうして私の仕事や院内の雑用をこなしてくれたりする。
さんを訪ねて色々な方が訪問されることも同時に増えたのだけれど。
それはシャンキー先生のご友人でもよくあることだから、驚きはしない。
むしろ、そうしてさんの周りにひとがいる光景を見るのは安心する。

彼をこの世界に繋ぎとめてくれるひとは、こんなにいるんだってわかるから。
私もそのひとつになれていたら、嬉しいのだけど。

「…どうかした?」
「え?」
「何か、考え込んでるみたいだったから」

物思いにふけっていたせいだろう、さんを心配させてしまった。
あまり変化しない表情の中、瞳に気遣う色が浮かんでいるのがわかって私は笑う。
彼のこの優しさが、愛しくて愛しくて。

「幸せだな、って思ってたんです」
「幸せ?」
「はい。さんがいてくれて、生活する場があって」
「……うん、俺も幸せだよ」
「本当に?」
「本当に。アンが、笑ってくれるから」

そう言って、ふわりとちゃんとした微笑みを見せてくれる。
彼の笑顔は貴重で、だからこそすごく心臓にも悪い。しかもそれを当人は理解していない。
頬が火照ってきそうになって、私は両手で顔を抑える。
でも、とちらりとさんを見上げると、不思議そうに彼は首を傾げていて。

「……私も、さんが笑ってくれるから、幸せです」

ありたっけの想いをこめて勇気を出して言ってみる。
不意を突かれたような顔をした彼は、瞳を揺らした。痛みを、堪えるような表情で。
いまにも泣きそうな顔をするから、思わず彼の服をつかんでしまう。
大丈夫、と微笑んでさんは額にキスを落としてくれた。それは感謝のキス。

きっと、日常というものが一番遠い場所にあったさん。
私も一度はそれが奪われて、二度と取り戻せないものなのだと思っていた。
でも私に日常という幸せを返してくれたのはさんで。だからこそ、私も同じものを返したい。

さん」
「…ん?」
「幸せになりましょうね」
「………うん」

私だけじゃない、たくさんのひとへ優しさを向けてくれる彼だからこそ。
誰よりも、幸せになってほしいと願う。

それが、私の幸せにも繋がるのだから。






幸せいっぱいで、思わず感涙しそうになったに違いない。

[2012年 6月 21日]