「いやいや、じーさん。それは歯医者に行くべきだって」
「いやじゃ。歯医者なんぞ行ったら死んでしまう」
「んな子供みたいなこと言ってないでさー。痛いだろ?食べるの辛いだろ?だったら治すべきでしょ、つか虫歯はほっとくと命に関わるからヤバイんだって実際」
「先生が治療してくれればいいじゃろ、全身麻酔で」
「虫歯ごときにどんだけ怯えてんの!?全身麻酔とか身体に負担かかるからダメだって!」

最後の診察客がなかなかの難敵で、俺はもうヘトヘト。
年寄りってのは頑固だよねぇ、ホント。いや、歯医者怖い気持ちはわからんでもないさ。
だけど、だからって専門でもない俺に治療しろってのはどうなんだ。…できるとは思うけど。
虫歯がひとつあるだけで、毎日の食事が楽しくなくなんだろうにもー。

「だいたい、じーさんは金あんだろ?歯医者に行くぐらいのさ」
「…この近辺の歯医者は腕がよくもないのに高いとこばっかじゃ」
「えー、そうか?割と普通だと思うんだけど」

っていうか、こんなにごり押ししてくるようなタイプじゃないはずなんだよな、このじーさん。
カルテをちらりと見てみるけど、普段は間接が痛むとかそういう相談が主で。
突然虫歯の相談されてびっくりしたけど。…まあ数回歯医者行けば治るんじゃん?ってレベル。
俺がやれば一回で済むから楽っちゃ楽だが、その場合は負担額が馬鹿にならん。
金のない奴は無料で治療するけど、金があるなら別だ。そこの線引きはけっこうドライ。
んで、じーさんだってそれはよくわかってるはずなのに。

頬杖をついてどうしたもんかと唸っていると、カルテの文章のひとつに目がとまった。
あ、そういや。

「じーさん、今度孫が生まれんだか、生まれたんだかしたんじゃなかったか?」
「……む。よく覚えてるな」
「聞いた情報は書き留めてんの。娘さんだっけ?遠くにいんだろ、孫の顔見たいだろ」
「まあな」

頷きながらも重々しい溜め息が落ちる。おっと、こりゃなんかあったのか。
もしや、と思ってじーさんの顔を覗き込んでみる。

「なんだよ、何かあったん?」
「……未熟児で生まれたらしくての、ちょっと医療費がかさんでおる」
「ふーん」
「一応自分たちで払えるとは言ってはいるんじゃが」
「援助してあげたいってわけか」
「一人娘だぞ、当然だろう」

あーなるほどねー、んで虫歯の治療費ケチって仕送りに回そうとしてんのか。
それだってスズメの涙程度の金額にしかならないだろうけど、じーさんにとっての精一杯。
だからってじーさんが身体ボロボロになっちゃ意味ないっしょ、すでにガタガタなのに。
やれやれ、年寄りってのは頑固な上に情が厚すぎるっていうか。

「…わーかったよ、治療費は全部娘さんの仕送りに回せよ。それ条件で治療してやる」
「…っ…本当か!!」
「顔寄せんなジジイの皺々なんぞ近くで見たくない」
「失礼な小僧だな。いずれお前もこうなるんじゃぞ」
「いーんだよ俺は。その前にどうせくたばる」
「はぁ?」
「医者ってのはけっこう早死にするんだぜー?命削ってやってる仕事だからな」
「それは困る」
「はい?」
「お前が死んだら俺たちが困る。死ぬ気で死なないようにしてもらわんと」
「死ぬ気なのか生きる気なのかどっちよ…」

つか俺がジジイになっても生きてるつもりかこのじーさん。
なんだかおかしくなって、我慢できずに声に出して笑ってしまった。
こっちは真剣じゃ、と腕まで組んでみせるもんだから。
虫歯こさえたジジイに言われても貫録ねえわ、とひらひら手を振る。

俺にこんな居場所ができるなんて昔は想像もしてなかった。
生きろ、と言ってくれるひとが沢山いてくれる。ちょっとうるさいぐらいだ。

あのとき、生きたいならつかめと伸ばされた手を俺は忘れない。
力強い目に引き寄せられて、俺が手をとるとわかってるような笑顔に腹が立って。
そうして生きることを選んだこと、後悔はしていない。
………その手の持ち主がジンであったことには、いまだ絶望してるけど。

おかげでこうやって仕事にありついて、良い友達もできて。
アン嬢という可愛い部下もいて、毎日退屈しない。

俺が手をとらなくても、生きろと勝手に背中を押してくれる手が幾つもある。
それを知ってるから、俺はもう生きたいなんて願うことはしない。
自然のままありのまま、生きられるだけ生きる。それがまた、誰かを生かすことを知ったから。
その誰かが、別の誰かを助けて、広がっていく。

自分しかいなかった世界はいつの間にか。

こんなにも。





おお、ちゃんと仕事してる。

[2012年 9月 5日]