(…これか)

応接間らしい広々とした部屋の一角に飾られた、ひとつの抽象画。
何が描かれているのかなんてことには興味はない。
その絵から漂う気配に、自然と表情が引き締まる。
少し離れたところでは今回の依頼者である夫婦が不安気にこちらの様子を窺っていた。

こういった反応には慣れている。いつものことだし。
初対面でまず奇異な視線や疑惑の眼差しが送られて、依頼遂行中も彼らの不安が消えることはない。
完全に信用されるには、それだけ彼らからの依頼を確実にこなすことが必須なのだ。
年も性別も関係なく、要は実力さえ示せばいい。それだけ。

(…ま、それが一番難しいんだけど)

今回の依頼はこの絵のこと。
なんでも触れただけで全身が射抜かれるような痛みが走るのだとか。
事が起こり始めたのは数日前で、手に入れた当初はそんなことは起こらなかったらしい。
典型的なパターンだ。

悪意のこもった思念。呪詛と呼ばれるもの。
相手を意のままに操ったり陥れたり、今回のようなこともできたり。
決して放置しておいていいものではない。
長い年月の中で変異して、更なる災いを引き起こすこともある。

「しばらくお静かにお願いします」

絵からじわじわと溢れている何か。
触れてみれば、それはよりハッキリと感じることができた。

抑え込むようなイメージ。
それから、私の気と混ぜ合わせて……。

なんて考えながら集中力を高めていくと、部屋中の空気が冷えていく。
依頼者たちが思わず腕を擦ってしまうほどに、下がる室温。
数分間その状態が続き、それは何かが割れるような音と共になくなった。

触れたままの絵からは、もう何も感じられない。自分の術が上手くいったことにホッと息を吐く。

「これで大丈夫です」
「…触れても大丈夫ということでしょうか?」
「ええ」

感心したように声をもらすこの家の主と、同意するように頷く妻である女性。
綺麗なひとだ。でも。
微かに感じるこの気配。

「不躾な質問で申し訳ないのですが、奥さんはもしかして声が……」
「……ええ。ひと月程前、突然出なくなってしまったようで。医者にも原因不明だと言われて……」

会ってからただの一度も言葉を発しない女性。
…医者にわからなかったのなら、残る可能性はひとつ。

「原因はおそらく、呪詛です」
「なっ…じゅ、呪詛とは、呪いですか!?そんな、」
「彼女を見た瞬間に感じました。間違いありません」

二人とも目玉が零れおちるんじゃないかというくらいに目を見開いた。
いやまあ、ショックを受けない方がおかしいよね。

資産家というのは誰かしらから恨みを買ってしまうことが多い。
どんなに善良な人間であっても、それが鼻につくという理由だったり、単なる妬みということも。
理由は何であれ、この背筋を何かが這うような感覚は呪詛だ。

旦那さんは口を開いたり閉じたりと繰り返していて、何を言えばいいのかと迷っているようだった。

「………それは………あなたならば解くことができるのですか?」
「ええ」

きっぱりと肯定すれば、少しだけ二人の表情が和らいだ。依頼追加決定っと。
お願いします、と頭を下げる旦那さんに頷いてから奥さんに胸元を見せるように言えば、少し戸惑いながらも開けて見せてくれる。

「では、動かないでください」

失礼します、と一声かけてから自分の指をナイフで切り、滲んできた血で彼女の首から胸元にかけて陣を描いた。

人間に向けて解呪をするのは久しぶりだ。
…大丈夫、もし失敗しても力は私に返ってくるだけ。死にはしないし、何より私にはお守りがある。

右手首に着けているブレスレット。お風呂のときも寝るとも外さない。これを着けたときから外したことはない。
これとセットで存在しているネックレスを、この間ひとりの男性にあげた。…着けてくれてるかなあ。

(…捨てちゃってる可能性もあるかな……)
「…あの、アルジェさん?」
「!…あ、すみません。それでは始めます」

いけないいけない。集中しないと失敗する。
いつも考え事してるから失敗するんだよ。何も考えるな私。

彼女の喉元に触れて、そこに蔓延る呪詛を覆うようにイメージしていく。
じわり、と熱を持っていく陣、淡く光る紋様。

大丈夫、大丈夫だ。
目を閉じて、指先に集中。彼女に触れている部分に全ての意識を。

ぽたり、と汗が顔を伝い床に落ちた。










「本当に、本当にありがとうございます…!」
「ありがと、ございます」

少し涙を滲ませながらお礼を繰り返す依頼者夫婦に、「いいえ」とだけ返す。
奥さんはひと月も喋っていなかったからか上手く声が出せないようで、それでも一生懸命に言葉をくれた。

「では、私はこれで」

依頼を完遂したら即座に立ち去る。
特に理由はないけれど、なんとなく長居はしたくないので自分の中で決めたことだ。
仕事中はなるべく笑わないとか、毅然とするとか、失敗をしないためのルール。
守ろうと努めているのに、いつもどこかしらでミスをしてしまうのが現状だ。

(…情けないなあ)

広い広い敷地内から出て、角をひとつ曲がったところで息を吐いた。

今回は大きなミスはなかったけれど、自分の未熟さを痛感せずにはいられない。
頑張らなきゃ、もっといっぱい。
もっと、上へ。



「………本屋行こ」

気が滅入ったときはあの場所へ行くに限る。
次の仕事まで時間があるし、店長にでも愚痴ろう。
面倒くさそうにあしらわれるか笑われるか放置されるかのどれかだろうけど。

賄賂でも持っていけば聞いてくれるだろうかと、近道をするために路地に入ったところで声が聞こえた。

「てめえ、やんのかコラ!!」
「………」
「無視してんじゃねえよ、何とか言え!」

なんとも典型的な怒鳴り方だ。
恐怖よりも呆れが出てきて、その後も飛び出てくる言葉があまりにもお約束で噴出してしまった。

……あ、やば。

「誰だそこにいんのは!」

うわ、見つかった。
別にここで出ていく必要はないよね。
むしろ道を引き返して立ち去るのもありだし…うん、そうしよう。

(面倒ごとはごめんだし…って、あれ?)

怒鳴られてた方のひと、もしかして。

「さっさと出て来」
「やっぱりさん!」

見覚えのある姿にすぐさま駆け寄ってみれば、うん、やっぱり彼だ。
黒髪と、不思議な輝きを秘めている目。間違いない。

「お久しぶりです、お元気でしたか?」
「うん。メイサ…でよかった?」
「はい。こんなところでどうしたんです?」
「…通りがかっただけ」
「そうなんですか。私は本屋に向かう途中で」
「てめえら無視してんじゃねえよ!!」

耳障りな怒声で会話が中断された。
そういえばいたんだっけ。

さんも彼の存在を忘れていたようで、ゆっくりと男の方へ視線を向けた。
その瞳が少し濁りを増してきている。…怖くないのは、それが私に向けられているのではないからかな。

「馬鹿にしやがって…痛い目みてえようだなあ?」

にやにやと笑う男。気持ち悪い。
対してさんの表情は静かなもので、そこから彼の考えを読み取ることなど知り合ったばかりの私には出来るはずもなかった。

「メイサは逃げろ」
「え」
「ここは俺に任せてくれていいから」

うん、まあこんな男、さんの相手じゃないんだろう。
私でもわかる。さんと男の力量の差。象とアリのような感じだ。

さんがこのチンピラ相手にどうにかなるなんて思ってないけど……。

「任せられません」
「…メイサ?」
さんをひとりで置いていくなんて私は嫌です」

どちらかひとり置いていく必要はない。
誰も怪我をすることなく、この場を治める方法を私は持っている。だから。

「さっきから何をごちゃごちゃ言ってやがんだ!」
「……さっきから耳障りな声ですね」
「んだとこらあ!ぶっ殺すぞこのアマ!!」
「それは困ります。――『この言の葉 汝を縛る "動くな"』」

途端に男の動きがぴたりと止まり、ついでに声も聞こえなくなった。
強いひとが相手だとこうはいかないんだけど、この男のひとは…うん、言わないでおこう。

あまり長くは持たない術なので、今のうちにとさんの手をとって動かない男の横を通り過ぎた。
そのまま小走りで路地を抜けて、例の本屋がある通りに出たところで歩みを緩めた。

「さっき、何をしたんだ?」
「言葉に力を込めて命じただけですけど……えっと、言霊です」
「……それも呪術なのか?」
「まあ、そうですね」
「便利というか…危険だな。確か呪術は、失敗したときに……」

彼の言わんとしていることがわかって苦笑した。

呪術というものを使っていれば嫌でもわかる、身に染みる。
失敗すれば放った術が自分に跳ね返ってくるという、俗に言うリバウンド。
あらゆる呪術に付随するデメリットだ。
きっとさんも、呪い関連を調べていく上で知ったのだろう。

「危険とわかってても、使わないわけにはいかないんです」
「仕事だからか?」
「それもありますね」

自分の身を守るために、あるいは誰かを守るために。仕事のために。
自分の意思で呪術を使う。
他人の命を奪う呪術に行使して、失敗したとき。死んでしまうのは自分。

わかってはいても、立ち止まるわけにはいかない。

「…リスクは承知の上なんだな」
「はい」
「………」
「……失敗と言えば、さんを傷つけちゃったのは本当に予想外でした」
「ああ…うん、俺も予想外だった」
「あはは、あんなことは二度とありませんから」
「そうであってほしい」

淡々とそう言うさんを見れば、何でか遠くを見るような目をしていた。
なんですかその反応は。




またも頂きました呪術師シリーズ!
メイサちゃん可愛い!
頑張って女の子守ろうとしたのに断られてる彼がらしくて素敵!(笑)


[2012年 1月 8日]