「あのさ」
手際よく開店準備をしているイリカの横で、ぐだぐだとテーブルに突っ伏している眼鏡の癖毛が、僕の方を見る。
疲れているのはわかるし、休ませてあげたいけど。
「邪魔なんだけど」
飲食店だから掃除が基本。
昨日帰る前にもイリカが掃除をしてくれてはいるけれど、衛生面を考えると、朝もする。
それは、店を持ってからずっと続けてきたことだし、これからも続けていくこと。
ユっちゃんは古本屋だからそんなに気を遣わなくていいだろうけれど、この男は医者。
サービス業で、もっとも衛生面について気を遣わなければいけない職業。
それでも伸びっぱなしの髭と、これまた伸びっぱなしの髪の毛。
お風呂は好きだから、一応綺麗好きではあるんだろうけれど、だらしない格好。
僕みたいに不器用でボタンがとめられない訳じゃないのに、なぜか肌蹴る。
本人がファッションだって言い張ってるから、それでいいのかもしれないけれど、診てもらってる患者さんに正直なところを聴きたい。
女の子大好きなシャンキーにとって、『渋くてカッコイイおじさん』と称されるのは大切なことだろうから本心が訊きたい。
まぁ、年頃の女の子なんて、シャンキーの所には早々来ないんだけど。
「ひっどーい。ラフィーくん、愛が足りないよ!」
そう口ではいいながらも、にやにやとそのままくつろぐ様に、とうとうため息が出る。
着崩したシャツから見える鎖骨が、本人曰く、『セクシー』なんだそうだけど、ちゃんと閉めたい欲求に駆られる。
こちらからは本人の瞳がきちんと見れないほどの度の入った眼鏡は、コンタクトに変えてやりたい。
ぼさぼさで、後ろでひとつに束ねただけの髪の毛は、短く切ってやりたい。
不器用だから、全部ユっちゃんに注文付けるしかないのが悔しい。
自分でできるなら、いますぐにでも実行してやるのに。
きちんと整えればきっと、『渋くてカッコイイおじさん』になれるくらいには整ってるのに、少し残念な気分になる。
「うん、だから、掃除の邪魔」
なかば強引にシャンキーの襟首を掴んで、ぽいっと放り投げる。
本気だせば僕くらいの力じゃ、シャンキーは飛ばない。
だけど、気を抜いているのか、簡単に放り出される。
首根っこを掴まれた猫のように、放り投げられても、着地はしっかりできる。
軽い身のこなしは、およそ普通の医者ではない。
すこしだるそうに、掃除が終わった場所へ移動するのを見て、もうひとつため息が出る。
「はぁ」
「そんなにため息ついてたら倖せが逃げてくよー」
今日は休診なのだろうか。
いつのまにか僕の部屋にいて、いつのまにか僕のご飯食べてて。
いつもあの子が用意してくれているだろうものを、僕が用意して、それを食べるのを見て。
なにがあったのかは、訊かない。いいたくなるまで待つけど、さ。
それでも、自分が休みなのをいいことに、ひとの仕事の邪魔をしないでほしい。
「シャンキー先生!!!」
「お、アン嬢」
ひらひらと手を振るシャンキーさんに、アンさんはすごく焦った様子。
静かな店内の空気が異質なものに変わったことに、周りのお客様も驚いていて。
周囲のお客様に謝罪してから、シャンキーさんの目の前の席について、大きく一呼吸。
「いらっしゃいませ、アンさん。今日はいかがなさいますか?」
「大きな声出してすみませんでした。紅茶だけいただけますか?」
「はい、すぐお持ちしますね」
そういって席を離れるけれど、そっと注意を向ける。
本当はこういうことしてはいけないな、とは思うのだけれど、あんなアンさんを見るのは初めてで。
いつもは素晴らしい気遣いができるひとが、取り乱して、息を切らして、周囲が見えないほどに。
お茶の準備ができて、席に届けた時に、アンさんがぽろぽろと泣いていて。
シャンキーさんは、少し困った表情で頬をかいていて。
どうしても、放っておけなくて、店長を呼びに行く。
「で、女の子泣かせて何してんの?」
いつもドライなのに仲がいい、と思うけれど、それよりも数段冷たい声で、それでもにこやかに訊く店長。
本当は店長を呼ぶべきものじゃないのに、それでも対応に困ってしまって。
私に対して呆れているのかな、と思うと、少し委縮してしまう。
店長が出てきて、しかも席に座っていることは少ないのだけれど、周りのお客様は気にしていない。
少なくとも中にいるお客様たちは、思い思いの時間を過ごしている。
それに対してほっと息を吐くと、私も勧められるまま、席に同席させてもらう。
「いやーあの・・・」
「アンさん、大丈夫ですよ。なにがあったんです?」
ハンカチを握りしめて、必死で耐えるようにしているけれど、涙があふれ出てしまっているアンさんの肩にそっと触れる。
一瞬身体が強張って、段々ふるふると震えて、嗚咽が漏れ聞こえる。
『先生が・・・・』そういって絞り出した声から考えるに、やはり原因はシャンキーさん。
その言葉を聴き取った店長が、更に念押しして、シャンキーさんににっこりと微笑む。
「で、何したの?」
「や、ラフィーくん、そんないい表情で・・・・・・」
「なに?」
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、やっぱり馬鹿なの?」
「あーその・・・すみません」
しょぼんと肩を落とすシャンキーに、呆れてしまう。
ひとを傷つける嘘だって、それなりに必要な時はあるだろうけれど、それでも今回のはいただけない。
「でもなんで、閉院なんて、嘘を?」
「どうせ今日が4月1日だから、でしょ?」
何かあるんですか?
こてんと首を傾けるイリカは、そういえば、こんな場面に遭遇したことがなかった。
俗っぽい遊びは、それなりに経験させてきたつもりだったけど、こんなバカはなかなかない。
「四月馬鹿。今日は嘘を吐いてもいい日なんだって」
「え」
起源はどこかは定かではないらしいけれど、と付け加える。
限られた地域の風習が、世界に広まって、訳の分からなくなることはよくある。
そして、変わったものがあると乗っかってみたくなる気持ちもわかる。
だけど。
「彼女の気持ち、考えてなかったの?」
大切な人たちを殺されて、くんに助けられて、シャンキーのところに来た彼女。
大袈裟かもしれないけれど、生きる意味と、生きる場所がシャンキーの病院だったはずだ。
それが、なんの相談もなく、閉院の知らせの紙だけおいて、シャンキーが消えたとなれば。
どれだけ不安だっただろう。あんなに取り乱して。
また目の前から大切なものを失ってしまう―――
想像しても、想像しきれないくらい、不安だったんじゃないのかな。
「まぁ、エイプリルフールにかこつけて、1日お休みが欲しかっただけ、ってとこ?」
「・・・・・・」
そう問えば、僅かに首を上下させる姿に、溜息を吐く他なかった。
軽い冗談のつもりでも、誰かを傷つけてしまうことは確かにある。
本人にその気がなくて、冗談だというのに、周囲が信じてしまうこと。
信頼されている、信じてもらえる。それは、とても心暖まることだというのに。
どこかでズレて、本人の与り知らぬところで混乱が起こる。
軽い想いで発した言葉も、ひょっとしたら誰かにとって、重い言葉だったのかもしれない。
大事なひとを傷つける言葉だけは、使いたくないよね。
そう、思うのに、それでも傷つけてしまうことはある。
気を付けていても、それでも傷つけてしまったら―――
「・・・・・・アン嬢、ごめん」
「・・・・・・いえ、私も先生を読み切れてなかったので。大騒ぎしてすみません」
「や、アン嬢のせいじゃないよ! 俺が悪ふざけしすぎて・・・!」
こうやって、面と向かって謝って、話をすればいい。
話ができるうちは、諦めないでいい。
大切なひとを失わないために、きちんと話をしよう。
そして、すべて笑って話せるように。
「店長」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
なにも、なにも話せてはいないけれど。
きゅっと掌を握って、心配してくれる存在が嬉しくて。
甘えてしまっているのかもしれない。それでも、やっぱり、自分の過去を見るのは怖くて。
胸の奥の傷が疼かないように、そっと蓋をしてくれる。
話したい相手は誰なのか。
伝えたい相手は誰なのか。
それは、とうの昔に分かっているのに、臆病な僕は、なにもできないまま。
話せるうちは、話さないと、更に傷つけるだけだと知っていながら―――
サイト二周年も兼ねての短編を書いてくださいました、海梨さんありがとうございますー!
とりあえず読んでの第一声は「シャンキーこの野郎!」に尽きるかと思われます。
…まったくねえ、いいおじさんが女の子泣かしちゃいけません。
笑顔で怒ってくださるラフィー店長は本日も素敵ですね。
四月馬鹿を知らないイリカちゃんプライスレス。
というわけで、ちょっとしたお礼を。
こちらでっす。
[2013年 4月 1日]